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トップ画倉庫(その42)

【土讃線土佐久礼駅】(2012.07.01〜2012.07.31)
私が小学生だった35年くらい前、登下校の道中は至る所が遊び場でした。公園や空き地だけではなく、材木置き場、溜め池、ドブ川など、ランドセルを投げだして、服や体が汚れるのも構わず駆け回り、時にはハメを外して周りの大人たちに叱られたのも、今となっては懐かしく思い出されます。
ゲーム機の普及や、遊び場所自体の減少、犯罪への不安など、時代の変化と言えばそれまでなのでしょうが、外遊びをする子供たちを見かけることも少なくなりましたが、こうした光景を見るにつけ、いつの時代も子供は遊びの天才なんだなぁと感じます。人生の折り返し地点を過ぎたおじさんにとって、その溢れんばかりの若さが羨ましくもあり、懐かしく感じられる春の一日でした。
【広島市交通科学館】(2012.08.01〜2012.08.31)
10万人を超える尊い命が奪われるとともに、一瞬として市街地は焦土と化し、生き残った人々からも生活のすべを奪い去った原子爆弾。市街地を走る路面電車網もその魔の手を逃れることはできず、多くの従業員が死亡し、在籍123両のうち3両以外が全半焼という壊滅的な被害を受けましたが、驚くべきことにそのわずか3日後に一部区間で運行を再開しています。一面の瓦礫の山の中、不死鳥のごとく蘇った電車が市民に与えた勇気は、計り知れないものがあったことでしょう。展示車両と同形式の一部は戦後70年近くを経た現在も現役で、ラッシュ時中心に「歴史の生き証人」として活躍しています。
時は流れて2011年3月11日の東日本大震災後においても、高架橋や駅舎などの設備に大きなダメージを受けた三陸鉄道が、わずか5日後に無料で「復興支援列車」を運行し、被災地の人々に大きな希望を与えたのは記憶に新しいところです。
今後70年草木が生えないと言われた広島は、戦後70年を経て人口約120万を数える大都市にまで復活しました。東日本大震災の被災地も必ずかつての豊かさを取り戻し、絶望の中に見えた一筋の光として「復興支援列車」が語り継がれて行くことでしょう。

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